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またこうして禅日記じみた文章を書き綴っている。
最初にブログみたいな機能を使ったのは大学1年生の頃だったが、それから何年経とうと変わらずローマ字をカナに変換して余白を埋める事には変わらない。
後どれ位こういう禅をするだろうか。
股関節が硬くて結跏趺坐を組めないから代わりに指を動かして黒いキーを押している。
モグワイを流して聴いている。
眼はやや照度を落とした液晶画面を見ている。
鼻は無臭を嗅いでいる。
舌にはさっき飲んだ牛乳の味がかすかに残っている。
脳はあまり使ってない。
パッと思いつく限りでも同時進行で色々な感覚が使われている。
それら一つ一つについて考えたり書いたりするのは容易だ。
あらゆる動作が同時に並列処理されている事を改めて考えたりその意味する所を思う事は難しい。
1アクションの中に様々なアクションが含まれ、行動が起きている。
アクション群体の中の一つでも欠けるとおそらく動作不良が起きる。
生まれてから現在まで色々なアクションをしてきたけど、汎用的なアクションは幾兆幾垓回と繰り返され、完璧の傍らに在る。
鼻口を使った呼吸や重心を崩さない歩行、手を使ったあれこれ、どれも洗練され尽くしている事だろう。
そして汎用動作所作の一つ一つが各々の人生の中で研鑽され外に顕れるものとすれば、きっと呼吸の仕方や歩き方で一人々々の生き様を語れるのだろう。
背中を丸めて誰がいなくとも道の端を歩く人。
耳たぶ・肩、尻を結ぶラインを一直線にして往来をすいすいと抜けていく人。
呼吸の浅い人。
腹から深い呼吸をする人。
汎用動作が一新されると、それはもう別の人間だろうか。
肉体が変わっても周囲や持ち物が変わらなければ同じ人間で、周囲の対応や持っている財産が変わればそれはもう別の人間なのだろうか。
例えば周りがゾンビだけの世界に投げ込まれたら、きっとその前後の自分は全く異なる存在になる気がする。
やっている事が変わるだけでは別の人間とはいえない様な気がする。
野球を辞めただけならばきっとイチローはイチローのままだろう。
野球を辞めるだけでなく、オーバードーズで心身共にボロボロになって金も求心力も失ったら清原は清原のままとは言えないのだろうか。
前提条件として「前」を知らなければ変化・変貌という言葉は使えない。
最初からその人や物に対する情報を持っていなければ、別とか同じとかそういう事は言えないだろう。
時には相手の変化でなく自分自身の思考が変化しただけという事もあるだろう。
だから常に立ち位置を確認していかなければな。
今日も禅だった。