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努力の分だけ評価される事は稀だ。

努力の数値化はほぼ不可能だし、数値化をしてもらう為に可視化というのもテキサス辺りのレッドネックがトレイラーハウスの住み心地を自慢するのと同じ位に山出しな感じがする。

チャック・パラニュークの翻訳を一冊分こなしてそれを読んでもらったとして、結果(この場合は翻訳精度)が良ければ何らかの反応は返ってくるのだろうが、まあこの一文を書いた途端に気づく自分の思考というのは、過程はあくまで自分で自分を評価する時の物差しで、外的評価は結果のみに伴うという事だ。

仕事や部活、その他諸々の集団行動においては勿論、

「結果はアレだったが、丁寧に手順を踏み忠誠心を維持していた」

とか

「誰よりも長時間従事していて、数字には上がってこない雑事を率先してこなしていた」

という風に、過程を評価する傾向もグループによっては出てくると思う。

そこを査定時に重視すると、皆結果問わず頭を垂れて自己満足っぽい事しかやらなくなるのではないかと思わざるを得ない。

だから努力の分だけ評価する事もどうかなと思う・・・思うがしかし、過程を全く見てもらえないのも萎える要因ではある。

可視化は野暮だが、視線は気になる。

結果は最重要だが、数値が届かない時に別項目である程度カヴァーさせる事の「ある程度」はどの程度必要なのか。

私的な話なら大いに過程を見るべきなのだろう・・・

部員の影ながらの超人的特訓を一切評価せずにキャプテンになれた昭和野球漫画のヒーローは存在しない。

存在しないのだが、フィクションでは皆結果が伴うからな。

今夜も禅だった。