ショートショート「ポール」
5/14
左親指の関節痛だ。
ボタンを押し過ぎたんだろう。
これから30年くらい生きて、残るものが何かを考えたい。
その間に仕事を続けていたら、端的に言えば貯金が残るだろう。
死までの期間、生きる事が何とかできるだけの金かは微妙だが、とにかく働いている間をやり過ごせてその後の期間寿命を欲張らなければ何とかなる位の金だと予測する。
もし文章を書いていたら、それらは自分が消さない限り後で読み返す事はできるだろう。
誰に見せる訳でもない空っぽの郵便箱に詰まった空気みたいな文字列が。
時に人生を語ったり、空想したり、物語めいた内容だったりと取り留めもない散文が100ダースくらい残るのではないか。
絵も同様。
格闘技はただの運動習慣で、世界と戦う為の手段でしかない。
音楽をやっていたら、これも消さない限り聴けるだろう。
もしかしたら出来た当時の事に思いを馳せたりできる程度の視聴に耐える内容になるかもしれない。
1年に1枚出せば30枚か。
それら30枚全部が成長の過程が全く感じられないゴミだったとしても、一応形でゴミみたいな30年を表せるのは何も残さないよりもほんの数ミリだけマシな事かもしれない。
人は残せるだろうか。
それは自分には関係がないと思いたい。
そうでないと自分次第になってしまい、30年後独りぼっちの自分を責めてしまうだろう。
自分を叱咤する事は辛い。
マシな人間になんてなれない事を先の30年で嫌という程知った後では、努力みたいなものが必ず報われると思うなんて、とてもできない。
5/8
デイリーライフにブレイクスルーは皆無だ。
カムイがF1モンスターマシンで記録するデッドスピードにも似たヒリヒリ感とは無縁だ。
無縁仏が町中を歩き廻っている。
輪廻の輪を抜けてトンネルの先の光にフッと消える。
デイリーライフからライフデスへ。
そんな循環を月3度は心待ちにする位に皮膚感覚が鈍っている。
サンドペーパーの上を転がるパイドパイパーの笛の掠れた高音が砂漠に鳴り響く。
ヤスリ掛けられた田宮のミニチュアモーターサイクルの側面の様にライフがささくれている。
架空のマシンに圧縮されたミニチュアカムイが乗り込み、架空のオンザロードを廻る。
計器はおおよそ振り切れている。
デッドライフスピードの中で風は氷点下を大きく飛び越えて、皮膚に活力が戻る。
対立・相反する2つの組み合わせ・空席の世界
あらゆるものの上で速度が踊る。
シュルルーム
4/20
生物多様性について。
外では強風がひっきりなしに吹いている。
雷雨に吹雪、後は考え得る限りの自然の猛威が四季問わず振るわれる島があるとしよう。
生き残るのは岩石・雑草。
パフィンやチーターは種を継続できない。
或いは生態系に適応する形での変貌を遂げる必要がある。
岩石と雑草で栄養価を賄える様になったチーターはもはや獲物を追う事もない。
速力は衰え、幽鬼のような紫色の体毛を壁にこすりつけながら、フィヨルドの崖下の洞穴で1日を終えるだろう。
岩石や雑草は不変だ。
変化する必要すらない。
雷に打たれれば2つに割れ、雨に打たれれば艶やかに丸く削られる。
ただ外界の動きに合わせて適当にしていればいい。
どの島にも最後は丈夫な雑草と岩石だけが残る。
4/18
視線と言葉が神経に火をつけると聞いた。
普段の生活において視線・言葉・服で体裁を整えている節も確かにある。
それらに守られていて分かりにくいのだが、意外と大人らしい大人は少ない。
50過ぎて小学生の様なスペシアルは多いし、逆に10代でスマートな頭脳の持ち主も少なくない。
人生経験でカヴァーできるのは、頭を使った領域分に限られる。
惰性でボタンを押した回数の多寡が活きるケースなど稀だし、そのボタン作業自体も何年と繰り返すべきものではなく数ヶ月で習熟の頭打ちが来る場合が多い。
あとは年齢を重ねたというはったりが利く様になる位だろうか。
これは意外と重要な事だが、内容の薄さを見抜かれると途端に軽蔑の対象へと堕ちる事になる。
だから年齢を経るにつれて視線・言葉・服で体裁を整える事に意味が出てくる。
はったりを補強する事に戦略的価値がある。
人は他人の事を目分量でしか計る事ができない。
だからこそだ。
内外の差を埋める努力は後ですればいい。
4/16
思い付いた時というよりも、テレビを付けて1人用ソファで寛いでいる時とかに何気なくギターを触っていたりするとそこそこなラインが出来るのでボイスメモで残しておく事がある。
墜落した飛行機の残骸から見つかるボイスオーバーの如く、私が墜落した後に天才的な才能を持った誰かがボイスメモを発見して気紛れに最高のアレンジと作詞をしてくれればそれがハッピーエンドなんだと思う。
デモをデモとして生産する以上の事は、私にはできない。
たまに気が向いてアレンジを完成させようとするが、凡庸さしか引き出せない。
そんな感じの有象無象のデモ群が携帯の中には出されない手紙の山の様に湧き上がっている。
誰かに聴かせたら、誰か次第で進んだりするのかもしれないがそれは他力本願過ぎるし、悲しい事に私のそういった部分に興味を持ってくれる他人というのは結局の所今後も現れないだろう。
そういう予感がしている。
スタジオに誰かを誘ったり、相手の曲をアレンジしたり、世に出す手伝いをしたりというのは割と経験してきたが、荒野に花は咲かないしその日が来るまでに魂は燃え尽きてしまった様に思える。
野球帽を被り、血豆をこさえた指でバットを握る野球人形が私の目の前にいて、それは静かに泣いている。
白馬の背に乗って草原を走り去ってしまいたい。
最早今の私はこんな感じなのかもしれない。