3/15

「思い出し笑い」ならぬ「思い出しフローチャート」を夜の布団の中で行う事がある。

だけど過去のある事象について現在の価値観で評価する事にどれだけ意味があるのだろう、と思う。

しかも主観で不確かな記憶に基づいて行うので、大抵は歪めて思い出しがちだ。

 

現在の自分から見て取り得る選択肢、正誤好悪・・・そこから学び取れる事は少なくて、でも始めたら時間がどんどん過ぎていく。

20歳時点から見た10歳時点の行動思考に対してあの時こうであれば、とイチャモンを付けるのは簡単だが、プラトンでもないのに10歳児が自分を律する事なんかできない。

30歳時点から20歳時点の行動に文句を付けるのも同様に不可能だ。

40歳から30歳はどうだろう、あまりその間に変化や成長がなければ何か有意義な話もできるのかもしれない。

 

どんな時も、きっとその時はそうせざるを得なかったのだ。

だから時間逆行しての批判や説教は自己評価を下げるだけの無駄な行為で、多分すべきなのは程よくそのページを読んだら日記を閉じて、その内容が面白ければ自分を褒めて、後はまた読み返したくなるまで触れない事なのかもしれない。

 

50歳→40歳、60歳→50歳は恐らく金と身体の事だけしかフローチャートしなくなるはずだから、そこまで生きていればもう自己改善に潰されそうになったり、あるいは悩まなくなるのではないか。まさに不惑になっている筈だ。

 

不惑になれば電流的閉回路思考を持てるのだろうか。

回路網の様に電流が分岐してあちこち回るのではなく、閉じたスイッチに沿って1本の道を電流が流れる閉じた輪。

なってみないと分からないな・・・

 

ま、とにかく時間逆行が始まり何かしら自分に言いたくなったら、各事象を批判する事なく褒め、それでも納得が無ければ最後に「悩まなくなる瞬間まで禅を続けてみればいい」とだけ付け足せばいい。

 

そう思う今日この頃です。

 

3/14

三日坊主という程ではないけど、やる気や集中が長続きしないというのは年々そうなってる自覚がある。

だから長く続けたいことには他人や団体を介して自分一人だけの意思で終わらせられなくしたり、なるべくスケジュールみたいなのを可視化して時が来たらやらざるを得なくしたり、工夫を人一倍してきたと思う。

でもそれが本当によく分からなくなると、他人を介してたりスケジュールのここまでやらなきゃ無駄じゃないか、とかそういった足止めにしていたアレコレがストレスでしかなくなり結局良くない終わり方をした事象も少なからずあった。

1人だとやり抜けない、ひとかどのモノになれないと思うのは依存心の強さを表しているのだろうか。

帰属意識というものを持ちたがる一方で他人にアレコレ言われるのが嫌いなので、途中足抜けしたとしてもまた容易く戻ってこれる様な物事を1人で、たまに誰かと、という風に続けていくのが結局1番良いのだろう。

文章を書くのは誰でもできて、いつでも中断ができる故に他者と差別化を図る事がとても難しく、音楽は他者と共有するハードルが自分にとっては高すぎて手慰みにしかならない趣味だ。

一方で運動はやればやるだけ結果が出るので、優先的に行う様になった。

いずれも一生付き合える趣味で、かつ1人で出来て中断しようと誰の迷惑にもならない。

3日やって4日休んでが52回続けば1年続けられる。更に半分のペースでも問題ない。

自分の中にある他人に依存したい気持ちを分かっているからこそ、1人で続けられる物事が残ったのか、単に手軽さ故なのか。

禅でしかないのか。








ショートショート「喫茶店、時間、記憶」

深夜1時16分、冬。

毎シーズン、季節の移り変わりに対応し切れない。
 
寒暖差がスティグマの様に自律神経を痕を残し、「風邪」という文字が浮かび上がる。
 
寝床で90年代、10代の時によく聴いていた音楽を聴く。
 
get up kids、jimmy eat worldfeeder、ギターと感情、感情。
 
毎シーズン、感情は失われている。
 
徐々に崖を蝕む海水の侵食の様に。
 
人というよりも人型の鉄に近づきつつある。
 
時間という概念で表現できるのは過ぎ去った物事と未だ来ない事象だけだ。
 
現在について話せる事はそう多くない。
 
過去を伝えるには、ただなぞるだけでいい。
 
未来については無責任に空白を埋めるだけでいい。
 
今語ろうとしている事が過去であれ未来であれ今であれ、時間の座標が針の動きの様に正しく弧を描くとは限らない。
 
その事実は過去に起こった現在なのかもしれないし、未来に起こり得る過去なのかもしれない。
 
今でも13歳の子供が壁を叩いているのかもしれないし、死者が棺を引っ掻いているのかもしれない。
 
時間の正確な座標など誰も知り得ない。
 
だから何はともあれ、差し当たっての現在について語り始めてみる事だ。
 
差し当たっての現在について話し始めるには、まず目につく事柄をそのまま言語化してみる事だ。
 
ここは喫茶店で、私の前には男が2人、隣には1人。
 
四人掛けのテーブルに私を含めて4人が座っている。
 
晴れた春の日付の何処か。
 
店内にはギターと感情の音楽が有線で緩やかに流れている。
 
バンドについての話し合いの為に私達はカフェに居た。
 
「お前はロッキーを殺したいんだろう?」
 
と、私から見て右奥に座ったペンギンが言った。
 
分かっていた事だ。
 
 責任を負いたくない人間は必ず「こちらが」どうしたいのか、と2人称で会話を進める。
 
「俺たちはそういう状況にすっかりうんざりしている」
 
あるいは「我々」「私達」といった複数での主語を好んで使う。
 
「俺はこうしたい」から「お前はこうしたいんだろう」になり、最後には「私達はこう考えている」に変化する。
 
 
「息が詰まりそうだ、好き勝手させるもんか!俺のバンド、俺のバンド、俺のバンドなんだ!」
 
と、私から見て左奥に座ったロッキーが言った。
 
1人称の言葉は発言者の強い思いを感じさせる。
 
私の右隣に座っていたレイシスト・ピエロは黙っていた。
 
昨夜は私の味方をする、ロッキーの専横は見過ごせないと言っていた彼はただ黙っていた。
 
その言葉を信頼していた私は何も用意せずにこの席についてしまった。
 
つまり3対1が確定していた。
 
つまり勝算はなかった。
 
彼が与する様な事を言っていなければ、あるいは私が完全には彼を信頼していなければー
 
そうすればまた違う展開もあったかもしれない。
 
だが中高一緒で、親友だと思っていた彼を信頼しないという考えを私は持ち得なかった。
 
「好き勝手させるもんか!」
 
ロッキーが言った。
 
最終的にアルバム用に録音した私のパート、それら全てを使用する事は止めさせた。
 
会計を済ませた私達はエレベーターに乗った。
 
 1Fに着くまでは誰も声を発しなかった。
 
私達はTSUTAYAのある交差点で別れた。
 
それ以来彼らからの連絡はない。
 
でも毎シーズン感情は薄れているから。
 
昔あった事も薄れていく。
 
でも時に、それが今朝あったかの様に、鮮明な感情を伴って思い出される事がある。
 
そうした時、それがどの時間座標に位置する記憶なのかが不鮮明になり、それに対する向き合い方が分からなくなる。
 
「随分前の話だから前に進もう」、なのか「ごく最近の事なんだからもう一度対話すべきだ」なのか。
 
時間の流れ方はその時その場所その人によりけりだ。
 
時間の正確な座標など誰も知り得ない。
 
だから何はともあれ、差し当たって混線した現在について語り始めてみる事だ。
 
私はそう思う。
 

3/10

ゴッズ・オウン・カントリーというイギリス北部の牧場が舞台の映画を観に行ってきた。


主人公は不具の父に代わって牛や羊の世話をしている20歳くらいの青年で、自分の仕事や環境何かもかもに不満を持ち、行きずりの同性愛者と寝たり酒に溺れたりして憂さを晴らしている。


特徴的な彼のパーツは、なんと言っても目だ。

牛の競りの帰りに若者を誘ってガン掘ろうと、閉店後のバーから路上に放り出されるくらいに正体を無くす程飲んだくれようとも、何も変わらず彼の目はいつも通り死んでいる。


で、ある日季節労働者ルーマニア人青年がやって来て2人で羊の世話などしている内に…という筋で、中々良い話で終わるんだけどとにかく印象に残ったのは主人公の目だった。


バーのトイレでタイプの青年が隣からアプローチを掛けてきているその時も彼の目は死んでいたし、山の頂上で羊の世話をしながらカップメン食べている時もやはり目は死んでいた…


劇伴が全く無い中で荒涼としつつも美しいハンプシャーの景色、その中で死んだ様に生きる若者があるキッカケで生き返る、そんな流れの中に所々光るオカシなシーンがあってそれがグルーヴを生み出していた。


違う時に違う場所で違う人間として目覚められたらー


これはファイトクラブに出てくる「僕」の台詞だけど、良い映画体験について説明している言葉でもあると思う。


そういう意味だと、このゴッズ・オウン・カントリーもそういう体験になった。




3/9

ここ最近、トレーニング習慣がうまく回ってていい感じに筋力上昇できている気がする。


特にジョギングは続ける事で腹斜筋が絞れてくるので、この調子でバキバキにしていきたい。


メニューの内容は主に、


・月水金、週3でダンベルと朝夕どちらかにジョギング


・火木日のいずれか2回に拳法稽古、稽古後の軽い負荷での腕立て、腹筋、爪先立ちジャンプ


ダンベルは10kgを使用、僧帽筋中心に働きかけるメニューを各15回×2セット、終了後にプロテイン補給。


ジョギングは早朝もしくは夜に公園内周を9周、うちクールダウンが3周。開始終了時それぞれストレッチを足首中心に入念に行う。


稽古後の運動は膝を立てた腕立てを50、足上げ腹筋を50、爪先立ちジャンプを100×3


土曜は完全休息。


1日あたり納豆と卵×2、プロテインミルク、何かしらの肉料理で必要タンパク質を得る。





5-4、DIRTY 3(スターシステム・時の旅人)

「DIRTY3」について語ろう。
 
無明世界観を理解する上で欠かせない要素がこのMつ流スターシステムの要とも言える「DIRTY3」だ。
Mつ先生の主な著作に必ず出てきては縦関係を十全に利用し不衛生な手段を使って登場人物の心を清々しい程にまでに破壊していく・・・
 
そんな彼らは常にスリーマンセルで行動する。
それゆえにDIRTY3と呼称される。
 
あすなろに10円を対価としてストリップをさせる不良3人組、桜高に入学した中尾の前に突如現れる中学時代の先輩3人組、野口に食糞文化を教える村の悪ガキ3人組、中国系移民のクリーニング屋を性的捌け口にするカウボーイ3人組、貧乏な浪人に因縁を付け切り捨てる土佐藩上士3人組、上杉に異食倒錯の素晴らしさを伝える大学の先輩3人組ー
 
いずれ劣らぬ陰惨かつ不浄の輩達である。
 
彼らは大抵が「3」高者の出自であり、前述した被虐「3」原則を読者に説明する為に根性人形達を切り裂く終末の「3」騎士と言ってもいい。「333」、スリースリーは獣の数字ならぬMつの数字と言えるだろう。
 
それが高校野球であれ時代劇であれ偉人伝であれ常に3人で現れ寸分違わぬ加虐のステップを踏む彼らは、実の所、Mつ邪神によって無明法則に囚われた時の旅人である。
 
最初に現れた高校野球世界において、DIRTY3こと中尾の先輩達はこう発言した。
 
「よう、また会えて光栄だぜ」
 
この発言自体は桜高野球部に対して再会を祝したセリフのようで、不自然なものではないと思う事だろう。
 
だが、勿論これはMつ邪神によるミスディレクションである。
 
実際は無明宇宙内に囚われ、平行世界に転生を繰り返しては望まない虐待を強制された3人組達が、恐らくは幕末世界もしくは大学野球世界辺りから高校野球世界への時間逆行を行い、また記憶の確保にも成功した為、数多の平行無明世界を既に踏破した我々読者に対しSOSを送っていると考えるのが妥当だろう。
 
「よう(読者の皆)、また(このクソッタレの無明世界で)会えて光栄だぜ」
 
と言う訳なのである。
 
もうお判りだろう。
彼らDIRTY3は平行世界の同一存在なのである。
 
偉人伝世界においてカウボーイ3人組が現れた時点で、同時存在が許されなかった野口の村の3人組は恐らく偉人伝世界のアカシックレコードから消失していた筈だ。
 
高校野球世界における小出ら不良3人組も、中尾の先輩3人組の時間逆行成功に伴う平行世界での記憶保持が行われ公式にこの宇宙での存在が固定された瞬間に、恐らく同じ結末を歩んだ事だろう。
 
元々の彼らは歪んでしまった神の原風景だったのかもしれない。
作者が内なるキャンバスに描かれたそのどす黒いイドを汲み取り、筆により発現させた結果、永遠の囚われ人となってしまった訳なのである。
 
作風として自分の身に起こった物事をそのまま筆に載せる先生の事だから、もしかしなくても、この3人組は先生の少年時代に実際に現れた災厄の象徴の様なものなのだろう。
 
 先生のそれからの人生の中に現れたあらゆる3高者達は、色々な意味合いで、常に「彼ら」だったのかもしれない。
 
 
 

ショートショート「バーとサードアイ」

彼は愛車でやり過ごす。

真夜中のハイウェイを、空白の時間を。

 

ガソリンはあとわずか、速度はインド高僧の所有するプライベート・ジェットより少し遅い位だ。

彼は出口を探している。

差し当たってはハイウェイの出口を。

 

速度降下を促す標識が左側に見え始め、62番出口の存在を示す。

気分は落ち込んでいる。

そこでダッシュボードに散乱した錠剤を右手で集めて、缶コーヒーで飲み下す。

ハンドルを左に切り、出口を下っていく。

 

出た所にはbarがあり、看板には「soon」とある。

停車場に車を停め、エンジンを切る。

 

少しの間、彼は運転席に座ったままでbarとは逆側の窓から夜空と星を眺める。

人の営みとやらがこの世界で未だ続いているとは信じがたい程に辺りは静かだ。

 

案外世界はもう終わっていて、その帰結として人類も終わり、彼はお伽話が終わった後、その中で一人生き続ける語り部なのかもしれない。

それもbarに入れば分かる、と考えたのか彼は車を降りてダイナーのドアを開け中に入る。

 

コの字テーブル、床から天井までの高さのガラス窓の向こうには夜空と星。

テーブル席はあるものの誰一人座っていない。

コの字の真ん中、その空白箇所に収まる様にマスターらしき中年男が立っているだけだ。

囁く様なボリュームで音楽が鳴っている。

 

「welcome-」

 

マスターが独り言の様に言う。

店の印象は盆の町と言った所だ。

 

街灯が誰も居ないアスファルトの道路を照らす、陰影がはっきりとした情景。

無機物ばかりが存在感を出す、居ない事で賑わいを想像させ、静寂がより静けさを増す。

そんな盆の情景。

 

彼はマスターの目の前、コの字の下辺にあたる席に座る。

囁き声の様だった音楽が、この位置では少し聴こえやすくなる。

 

"貴方の生まれた 1962年の空はー”

演歌だろうか?

 

「何処かでお会いした事が?」

 

水を出しながらマスターが尋ねる。

彼ーヒロムタ・オサムは何も返さない。翳りのある表情で窓の外の闇を眺める。

あるいはマスターことワダツミ・ウミノスケの独り言だったのかもしれない。

 

"まるで 貴方の排泄物の 様でした”

 

「ご注文はー」

 

「いつものを」

 

"もしも 願いが叶うなら 嗚呼 夢の中”

 

「”grandma, wait for u”です、どうぞ」

 

「この味、変わらない…」

 

「ありがとうございます、前回から62104日振りのご来店でございます」

 

"一度でいいから 見てみたい 嗚呼 夢の底”

 

「裏口はあいてるかな?」

 

「えぇ、幸い今夜は磁場が安定しておりますから」

 

"貴方は 豚食い”

 

「ただ…」

 

「ただ?」

 

「世界は常に流転(slide)しております。前回と同じ結果(cause and effect)になるとは期待しないでください」

 

"夕暮れ 部屋の中”

 

「前回、あの裏口を開けて出た先には部屋があった」

 

「四畳半のフローリングで、窓際に置かれた机の上に甲虫の模型が載っていた」

 

"真ん中に ロープと人”

 

「甲虫ですか?」

 

「そう、プラスチックで出来たそれを、俺は見つめる事に集中した」

 

「しばらく後に窓から鳥が入って来て甲虫を啄ばむまでー」

 

啄ばまれた接続部分が取れ、中からメモ書きが現れたー

 

“welcome to the long and winding road

 

と書かれていた。

 

「裏口、借りるよ」

 

"貴方の排泄物を受け入れ 床が光る”

 

open the door…

 

ドアの奥に見える、吊られたもう一人のヒロムタオサムが発光する。

 

"床が光る”.

 

それを見た「こちら側の彼」ーヒロムタオサムの額に第3の目が発現する。

 

先生(grandmaster)ー

 

待ってるね・・・(i’m waiting for you)

 

 

to be continued...