4/12
神も仏もいない世界だが、これはつまり神や仏の様なスペックを搭載した超人不在の世界という訳で。
まぁ、人間世界の話なのだから人を超えた者は存在しない、当たり前の事だ。
人間を評価したり罰したりするのが人間である限りは完全な中立性で以って…は不可能なので、全員がそこに付け入る隙を見出すのである。
大きな嘘を隠す為に小さな嘘をついて、その部分については納得を与えて本質的な追求を流れたり、
別の敵を与えてこちらの問題を後回しにさせたり、
弱い立場の人間にハズレを引かせて不都合を回避したり、様々だ。
それら全ての悪逆をお天道様はお見通しかもしれないが、人はお天道様ではないので正しい判断など不可能だ。
だから誰もがハンドルの「遊び」というか緩みを確保しつつ、各々のカリスマに従ってアクセルを踏み込む。
シュルルーム!
慈悲・寛容なき道筋とはつまり、他人にハンドルを100%握らせながらも運転の仕方を62104%強制する事に相違ない。
バーン!
路肩に乗り上げ人を轢こうが、クラッシュしようがガス欠になろうがその教員気取りが責任など取るはずもない。
運転席に座っていたのは自分だろ?てなもんで、かくして世界は再び闇に包まれる。
自分が運転席に座って、どこに向かっているのか。それだけを考えればいい。
だって誰も正しい判断などできやしないのだから。
ドカーン!
4/9
夜寝るという行為から極北の位置にいる時の事だ。
あらゆるピースが何処かにすっ飛んでいく夢を見たい。
夢を見るには布団に入り、息を長く深く吐き、目を瞑って待機しなければならないのに。
単純動作が心身を支配している。
体の一部を義体化できるというオファーが来たら取り替える部位は間違いなく自立神経系統だ。
夜10時になったら副交感神経を優位にして深く眠り、朝5時になったら交感神経を最大出力して完全に覚醒する。
感情をシャットアウトしたり、逆に熱狂状態を作ったり。
きっと思うままだ。
腕や足、視覚強化も捨てがたいが、神経系にアクセスできる様になれば世界がよく見える様になるんじゃないだろうかと思う。
誰かに失望や怒りを感じる事もなく、人間の限界値で泣いたり笑ったりできる。
恥をコントロールできれば絶望もなくなる。
もしかしたら交感神経のスイッチはずっとオフにするかもしれない。
セロトニンが溢れ出した状態で生活の全てを仕切るのはどんな感じなんだろうか。
自然に生命活動が停止するまでずっと、癒しの波動を奥歯に感じ続ける事は。
逆を行くよりも大分幸せだろうな。
義体化せずにコントロールするとすれば結局呼吸を極める事だろうか。
明日は1時間くらい吸ったり吐いたりしてみようか。
ショートショート「絶滅と国境線」
国境付近・高度10000m
僕は昔国民的アニメで見た事のあるプラスチック製の飛行器具を頭頂に付けている。
眼下にはかつて東京を壊した怪獣が世界を1つにしている。
脅威があって始めて人類は団結するというならば、平和とは常に経過の状態なんだろう。
ビーカーの中の触媒
車に轢かれた猫の一息
分解されゆく葉緑体の中のCO2
スピーカーが黄昏を告げる。
国連軍の砲撃は新世界に向けての祝砲だ。
ほらまた踏み潰されて、戦線離脱。
僕の眼下で国境が消える。
僕の中でも国境は消える。
いい気持ちだ。
もっと早くにこうして空を飛べていれば良かったな。
追伸・ワダツミウミノスケ様。愚兄は本日正午、大気圏を突破致しました。
新しい世界でもまた貴方の兄として産まれたく思います。
草々
新世界の海からまた生命が紡がれて、その延長線にいる誰かがある時二足歩行の優位性に気付き、ギターを抱えて懐かしく新しい歌を歌いました。
その響きに対してFやAという様な退屈な名前は付けられず、ただ硝煙の匂いに似た音が辺りに立ち込めていました。
音楽はいよいよ大きく鳴り続け、気付けば何処かの浜から流れ着いた、永遠にふやけたり千切れたりしない類の紙で出来た雑誌のページが風で捲られ、偶発的に開いた箇所に描かれたマーマレード色の空の下にあるオレンジの木がある何処かの風景を僕らは約束の地として目指す事に決めました。
道中兄が言うには、あの風景は一巡する前の国境線近くから上がった煙の中、兄がテレビに入れたビデオカセットにより再生された島の風景だったという事でした。
絶滅という言葉が何故だか僕の頭の中で繰り返されました。
そして僕たちは海を再び渡りました。
3/31
努力の分だけ評価される事は稀だ。
努力の数値化はほぼ不可能だし、数値化をしてもらう為に可視化というのもテキサス辺りのレッドネックがトレイラーハウスの住み心地を自慢するのと同じ位に山出しな感じがする。
チャック・パラニュークの翻訳を一冊分こなしてそれを読んでもらったとして、結果(この場合は翻訳精度)が良ければ何らかの反応は返ってくるのだろうが、まあこの一文を書いた途端に気づく自分の思考というのは、過程はあくまで自分で自分を評価する時の物差しで、外的評価は結果のみに伴うという事だ。
仕事や部活、その他諸々の集団行動においては勿論、
「結果はアレだったが、丁寧に手順を踏み忠誠心を維持していた」
とか
「誰よりも長時間従事していて、数字には上がってこない雑事を率先してこなしていた」
という風に、過程を評価する傾向もグループによっては出てくると思う。
そこを査定時に重視すると、皆結果問わず頭を垂れて自己満足っぽい事しかやらなくなるのではないかと思わざるを得ない。
だから努力の分だけ評価する事もどうかなと思う・・・思うがしかし、過程を全く見てもらえないのも萎える要因ではある。
可視化は野暮だが、視線は気になる。
結果は最重要だが、数値が届かない時に別項目である程度カヴァーさせる事の「ある程度」はどの程度必要なのか。
私的な話なら大いに過程を見るべきなのだろう・・・
部員の影ながらの超人的特訓を一切評価せずにキャプテンになれた昭和野球漫画のヒーローは存在しない。
存在しないのだが、フィクションでは皆結果が伴うからな。
今夜も禅だった。
3/23
またこうして禅日記じみた文章を書き綴っている。
最初にブログみたいな機能を使ったのは大学1年生の頃だったが、それから何年経とうと変わらずローマ字をカナに変換して余白を埋める事には変わらない。
後どれ位こういう禅をするだろうか。
股関節が硬くて結跏趺坐を組めないから代わりに指を動かして黒いキーを押している。
モグワイを流して聴いている。
眼はやや照度を落とした液晶画面を見ている。
鼻は無臭を嗅いでいる。
舌にはさっき飲んだ牛乳の味がかすかに残っている。
脳はあまり使ってない。
パッと思いつく限りでも同時進行で色々な感覚が使われている。
それら一つ一つについて考えたり書いたりするのは容易だ。
あらゆる動作が同時に並列処理されている事を改めて考えたりその意味する所を思う事は難しい。
1アクションの中に様々なアクションが含まれ、行動が起きている。
アクション群体の中の一つでも欠けるとおそらく動作不良が起きる。
生まれてから現在まで色々なアクションをしてきたけど、汎用的なアクションは幾兆幾垓回と繰り返され、完璧の傍らに在る。
鼻口を使った呼吸や重心を崩さない歩行、手を使ったあれこれ、どれも洗練され尽くしている事だろう。
そして汎用動作所作の一つ一つが各々の人生の中で研鑽され外に顕れるものとすれば、きっと呼吸の仕方や歩き方で一人々々の生き様を語れるのだろう。
背中を丸めて誰がいなくとも道の端を歩く人。
耳たぶ・肩、尻を結ぶラインを一直線にして往来をすいすいと抜けていく人。
呼吸の浅い人。
腹から深い呼吸をする人。
汎用動作が一新されると、それはもう別の人間だろうか。
肉体が変わっても周囲や持ち物が変わらなければ同じ人間で、周囲の対応や持っている財産が変わればそれはもう別の人間なのだろうか。
例えば周りがゾンビだけの世界に投げ込まれたら、きっとその前後の自分は全く異なる存在になる気がする。
やっている事が変わるだけでは別の人間とはいえない様な気がする。
野球を辞めただけならばきっとイチローはイチローのままだろう。
野球を辞めるだけでなく、オーバードーズで心身共にボロボロになって金も求心力も失ったら清原は清原のままとは言えないのだろうか。
前提条件として「前」を知らなければ変化・変貌という言葉は使えない。
最初からその人や物に対する情報を持っていなければ、別とか同じとかそういう事は言えないだろう。
時には相手の変化でなく自分自身の思考が変化しただけという事もあるだろう。
だから常に立ち位置を確認していかなければな。
今日も禅だった。
3/21
スカルスガルド次男(itでペニーワイズを演じた北欧イケメンだ)が18歳くらいの役を主演した映画を観た。
アスペルガーのシモンは兄と二人暮らし。自分自身のバランスと時間、スケジュールをなによりも大事にしていて…混乱するとドラム缶を改造して宇宙船に見立てたものの中に入り、宇宙空間に一人浮かんでいるイメージを持つ。
昔私も毛布を引き出しにぶら下げて部屋の明かりをカットし、ライトを吊るしてテント生活を寝室でやった事がある。
井戸みたいな空間に降りて物事を考えるでもなく、1人になる時間を取る事はなくなった。
暇をつぶすだけでなく何かそういう時間をたまには取るのも良いのかもな、と思った。
ピザの様な円盤を曜日で7つに分けて、その中にタスクを書いた磁石シールを貼り付けてそれに沿って生活をする。同居人の兄も兄の恋人も彼の周期に沿って動く事を求められる。
で、兄の恋人は嫌気がさして出て行く。傷心の兄を見て、シモンは兄の新恋人かつ自分の生活習慣を嫌がらない女性を探すべく行動して行く…というのが話の筋。
目的に対して(シモン自身の価値観からすると)余計な事をしたり感情を巡らせたりせず「方程式」に沿って最短距離で進むのがシモンのやり方だが、その他の人達に取っては変な奴が非常識なムーブをしている、と捉えざるを得ず、兄も恋愛に方程式は無いし正解もないからシモンの探し方はうまくいかないと諭す。
全体としてシモンの間違い方が嫌な感じでなく、ペンギンが氷の上で滑ってしまう様な明るい笑いを伴うもので、中々良い北欧映画だった。
人類全てがシモンだったら皆自明で最短の規則的な行動をしてうまく行くのだろうか。
私も「方程式」が欲しいが、それは多分、揺るがない自分の思考という事なのかもしれない。
3/19
横になる行為が嫌いな人はそうそういないと思う。
自分に合った固さの程よいバネの効いたマットレスに横たわるのは社会で許される快適さの中でもかなり上位に位置すると思っている。
気分が悪い時や、手足が冷えている時に対処療法として行うこの行為も中々悪くないけど、1番はやはり本の読み疲れや運動の余韻で背筋が熱を持っている時などに行う単純な回復に根ざした横たわりだろう。
眠気や悪心、冷え性といった外敵とは一切関係しない中での横たわりにより知恵熱や運動熱が冷まされていき、同時に心身がより強化されていく感じ。清らかな横たわりだ。
そんな風に横たわれたら…その後に赤子の様な熟睡が広がっていたら…
今日あった事、不安や他人のいびきに邪魔されない、心地良い成長熱がリードする睡眠という境地を私もいつか手に入れてみたい。