ショートショート「地方書店とカレー」

その頃、私はとある地方の小さな町、その中の一件しかない本屋に勤めていた。

短期大学を卒業し、秋採用で入社した私は東京にある本社での3ヶ月の研修の後、その街にある支店へと配属された。
駅から15分ほど歩いた所にある3階建てのマンションの一室に住居を決めた。
店先の掃除、伝票整理、領収書発行、棚在庫の発注。
 
同じ様な1日を半年ほど周回していると夏が来ていた。
水打ちされた路面が太陽の光を反射している。
雲が水溜りの中を流れていく。
雲の落とした影は私の気分と視線の角度によって様々な形状を取る。
 
椅子の形が見えれば、私は家族が座っていた4つの椅子を思い出す。
母と父、姉、そして私が座り、日曜日の昼食を載せたダイニングテーブルを囲んでいる。
今、私の住居には椅子は来客用と合わせて、たった2つの椅子しかない。

くるぶしの形が見えたなら、私は七分丈のズボンから覗く従姉妹の小さなくるぶしを思い出す。
去年小学校に上がった彼女に、子供の頃使っていた人形達をプレゼントした。
少女だった頃は人形遊びが好きだった。
何体もの人形を並べ、一体一体の心になりきって何時間も遊んだ。
従姉妹はそうした私の思い出達を今も大事に扱ってくれているのだろうか?
 
その時々に見えた或る形にまつわる、淡い記憶が次々と呼び覚まされては影の消滅と共に消えていく。


雲と影と懐かしい形状。
そんな事を考えながら、レジからガラス越しの道路を眺めていた。
しばらくすると夕立が来て、路面は真っ黒になった。
私の追憶もそれで一段落となり、新刊書籍の搬入をするトラックの音で今日が土曜日だと思い出す。

休日、新刊、夕方と条件が重なれば、しがない地方書店のレジにもそれなりに長蛇の列が出来る。

私とアルバイトの大学生で客を捌いていく。棚整理、伝票整理、8時半には明日の準備を終え、帰路に着く。
雨はすっかり止んでいて、舗装道路から雨が浮き上がらせた埃と水蒸気の匂いが立ち込めている。


帰宅するとすぐにシャワーを浴びて、Tシャツとハーフパンツに着替え、昨日のカレーの残りを皿に盛る。
具はジャガイモ、玉葱、豚肉。ニンジンは決して容れない。
 
母の作るカレーのニンジンが嫌いだった。
大きく切りすぎて、芯の部分があまり煮えておらず甘い。
 
一人暮らしの今では気にする事もない。
 
布団を敷き、その上で大きく伸びをする。
隣の部屋からちりん、ちりんと風に揺られた風鈴の音が聴こえる。

電灯の紐を引っ張ると、窓から射し込む月の明るさがよくわかる。
窓は開けっ放しで、カーテンがふわふわと揺れている。
風が涼しくて、とても心地良い。そのまま私は眠りにつく。

そして朝まで一度たりとも目覚めず、夢も見ない。
また明日も今日を周回するのだろう。
 
「それも悪くない。悪くない生き方だよ」
 
誰もそうは言ってくれない。
だから朝と夜の間に、その言葉を自分で自分に呟いてみた。
 
なんとなく吹き出して、すぐにまた深い眠りに落ちた。