2000/2/13

ある意味では、自分の中には14歳の学生がまだ息づいているし、当時一緒に遊んだ仲間、不登校児の家に遊びに行って近くの公園で野球練習をした時の事、知らない都心の学校に通う為の電車がトンネルを曲がって地下鉄のぬるりとした鉄筋を通り過ぎていく所などを、今でもすぐに脳の片隅から拾ってこれる。

 

そういった細かい記憶群は懐かしく、何も無く、それゆえに幸せな欠片だ。

 

完結し、包装され、余分な不幸が削ぎ落とされた完璧な閉じた輪。

セピアになった結果、汚れや色彩が失われ、脳細胞が損なわれた部分を勝手に補完した青写真。

 

嫌な事、ままならない事、死を意識する様な事は今よりも沢山あった筈だけど、生きて活きる事を語らなかった時代。

 

自殺した漫画家。急死した同級生。いつの間にか会わなくなった人達。

 

時間が止まる事は歳を取らなくなる事で、何かを終わらせる為の完璧な方法はそれしかないから、細かい記憶群を反芻するのは擬似的な臨死体験にも似ている。

 

昔住んでいた街で、既に建て替えられた建築物にかつての住宅街を想起する時ー

不登校児の父の会社が倒産してアメリカ式建築の二階建てが空洞となっていた時ー

自転車ですれ違うかつての心友に他人の視線を向けた時ー

あらゆる瞬間、あらゆる場所で時間が止まる感覚を覚える。

 

昔住んでいた土地に住みたいと思うのは、その感覚を恒常的に得たいからに他ならないのだろう。