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今や世間に向けて発信したい事など無い。

個人的な事柄だけで行間を埋めるだけだ。

随分昔には、何か主題を抱えていた様な気がする。

でもそれは自意識が芽生えた後に誰しもが罹る麻疹みたいなものだった。

 

政治経済?

ふん。

ロック音楽の行く末?

ふふん。

同時存在の不可逆性?

ひも理論?

動物の痛みを伴わない菜食ディナー持ち寄り会議?

笑止ー

 

何事も時間が経過すれば物笑いの種になる。シリアスに取り組んだものであればあるほど、耐え難くなる。

それでも何かを行うのはー

読まれる事のない小説を書き、聴かれる事のない歌を歌い、顧みられる事のない絵を書くのはー

 

物笑いの種が多ければ多いほど、「それでも何かを行うのは?」への返答を見つけられる様な気がするからだろうか。

 

でも実際それは、ある朝目覚めると勝手に明瞭になっているものなのかもしれない。

 

たくさんの何かをする事と、何かを行う理由の判別との因果関係は全く関係のないものなのかもしれない。

 

ガンジス川を日永眺めたり、坐禅を1日16時間組んだりしないと分からない類の事なのかも。

 

だからこうやって文章を書く事も、何というか禅みたいなものだ。

誰も聴かない歌を歌う事は、川の流れを眺め続ける事だ。

絵を描く事は、変わる事の無い理を見続ける事なのかも。

 

そう考えると何かを行う事は基本的に無意味なんだけど、継続の意味があるものに感じなくもない。

 

禅、悟り、入滅、そういった動機も悪くない。

 

本当は、まやかしかも。

 

答えはやっぱり出ないな。

 

継続してみよう。

 

何でもいい。

 

過程を楽しめるものである限り。